木村さんはリンゴの栽培に食酢を使っています。リンゴの葉の状態によって違うのですが、数十倍から数百杯に薄めた食酢を、リンゴの木に散布します。食酢の持つごく弱い殺菌作用を利用して、リンゴの木を病害虫から守ることが目的です(あるいは病害虫と戦っているリンゴの木を、食酢の持つごく弱い殺菌作用によって援護してあげることが目的と言った方がより正確かもわかりません。食酢を散布すれば、それだけで無農薬リンゴができるというわけではないからです)。
ところでこの食酢は、改正農薬取締法で特定農薬に指定されています。
その事実を踏まえて、こういう指摘がありました。
「特定農薬でも、農薬は農薬なんだから、その特定農薬を使っている木村さんのリンゴ栽培は、無農薬栽培とは言えないのではないか」
とても良い質問だと思います。
その疑問は、私が木村さんに初めて会った日に僕自身が抱いた疑問でもあります。
それは2006年の暮れのことで、岩手山の麓にある弘前の木村さんのご自宅付近はかなり深い雪に埋もれていたと記憶しています。
特定農薬という言葉を、木村さんが口にしたのか、僕自身が下調べで読んだ本から知ったのか、今となってははっきり思い出せません。
とにかく私は木村さんの話を聞きながら、「酢は特定農薬だ。ということは、無農薬とは書けないんじゃないか?」と、考えたことを憶えています。
もちろん、無農薬と書けなくても、木村さんのリンゴの価値が下がるわけではありません。彼が使っているのは、結局のところ私たちのよく知っているお酢なのです。
我々はそれでドレッシングを作ったり、餃子のタレに入れたり、健康のために水で薄めて飲んだりしているわけですから。特定農薬に指定されたからといって、安全な食品でリンゴを作っているという事実には何の曇りもありません。
ただ、文章を書く上では、無農薬という言葉を使えないとなると、いろいろな面倒が起きてきます。「彼は農薬を使っていない」と、「彼は酢以外の農薬は使っていない」と、では読者の頭の中への事実の伝わり方の速度がまったく違います。
すぐに特定農薬について調べました。特定農薬という言葉は聞いたことがあっても、それがいかなるものか、私にはほとんど知識がなかったのです。
そのときわかったことを、順番にご説明しましょう。
最初に、特定農薬はいつ頃定められたか。
答えは、2002年です。この年の暮れの改正農薬取締法第二条第一項で特定農薬の定義が記されました。この改正によって、食酢が特定農薬とされたのです。
どう定義されているかと調べる前にまず、特定農薬が決められたのが2002年というところで、おやと思いました。木村さんがリンゴの無農薬栽培(と、敢えて書きます)に成功したのは80年代終わりから 90年代初頭です。その頃は、食酢はただの食材であって、特定農薬などではまったくなかったというわけです。
つまり、少なくとも「11年間におよぶ苦労の末に、木村さんがリンゴの無農薬栽培に成功した」と書くことは間違いではないということがわかりました。
もうひとつ、ちょっと子どもっぽい表現を借りれば、木村さんにとって特定農薬は後出しジャンケンみたいなものだった、ということもわかりました。木村さんに限らず、特定農薬と定義されたものを栽培に使っていた人たち全員にとって、明らかな後出しジャンケンだったのです。
だってそうでしょう。
農薬を使わずに作物を栽培するのは、いろいろな意味で簡単ではありません。こうすればこの作物は無農薬で栽培できるという、はっきりした方法が見つからないうちは特にそうです。無農薬栽培のパイオニア達は、みなさんそれぞれ数限りない試行錯誤を繰り返し困難を乗り越えて、ようやくその方法を見つけるわけです。
その長年にわたる苦労を、たったひとつの法律の成立が、一瞬にしてほぼ帳消しにしてしまったわけです。
木村さんは10年以上も試行錯誤を繰り返し、やっとのことで食酢の散布という、リンゴの無農薬栽培の鍵を見つけます。『奇跡のリンゴ』にも書きましたけれど、食酢を散布すればそれだけで誰でも無農薬リンゴが作れるという話ではありません。食酢は木村さんの栽培法を構成する、ひとつの要素に過ぎません。ただし、その要素には少なくとも現段階では代替物がありません。自動車に喩えればエンジンのようなものです。エンジンを発明すればそれで自動車が出来るというわけではありません。けれど、そのエンジンを使ってはいけないということになったら、自動車の開発はまた一からやり直しです。
木村さんが悪戦苦闘の末に見つけた食酢という答えを、2002年の改正農薬取締法が台無しにしてしまったわけです。
いや、それも、もし食酢の使用に何らかの問題があるというなら仕方のないことでしょう。食酢を使ってリンゴを作ったら、それを食べる人間や環境に、何らかの悪影響を与えることがわかったから、特定農薬に指定したのだという話ならわかります。
けれど、そういう話ではまったくないのです。
2002年の農薬取締法の改正で、食酢を特定農薬に指定したのはなぜか?
次回はその理由をお話しましょう。
2013年5月31日金曜日
2013年5月29日水曜日
はじめに
青森県弘前市の農家、木村秋則さんに初めてお会いしたのは、2006年の暮れのことでした。その日から約1年半、木村さんの元に通ってお話を聞き、『奇跡のリンゴ』という本を書き上げました。
この本が、農業をテーマとした人物伝としては、ちょっと考えられないほどの読者の支持を得て、ベストセラーとなり、ついには映画化までされることになったのは、著者として望外の幸せです。
たくさんの方から、激励や賞賛のお手紙やメールを頂きました。ライターという職業でありながら、極端な筆無精という致命的欠陥を抱えており、そのほとんどにお返事を出すことができませんでした。
この場をお借りして、心からの感謝を申し上げます。
ほんとうに、ありがとうございました。
もちろん寄せられたのは、賞賛のお便りだけでなく、誤字や脱字、あるいは事実誤認に関する指摘もいくつかありました。それらに関しては、すぐに調べて、ご指摘が正しい場合には、版を改める都度書き改めてきました。
出版社や私のところに寄せられたご指摘に関しては、基本的にすべて対処したつもりなのですが、このインターネット時代には別の形で投げかけられる(?)疑問や反論があります。たとえばこういうブログやツイッター、あるいは各種の掲示板などへの書き込みです。そういうものについては、直接私のところへ質問が送られない限りは、原則として何もお答えしないできました。
けれど、それも良くないよなあ──。
と、近頃思うことが多く、まあブログでも書いてみるかということになりました。
極端な筆無精でありながら(しつこい?)、ライターをやっているというオソロシイ状況ゆえ、いつも締め切りに追いまくられ、ブログの更新がどの程度の頻度でできるのか見当もつきませんが、そういうことで今後ともよろしくお願いします。
ということで、次回は特定農薬について書くことにします。木村さんは、リンゴの栽培に特定農薬に指定されている食酢を使っています。「特定農薬だろうが何だろうが、農薬は農薬なんだから、彼がリンゴの無農薬栽培に成功したと書くのは、間違いじゃないか」というご指摘がありました。
その指摘についての、私の返信です。
あ、次の更新がいつになるのかわからないので、結論だけ先に書いておきます。
農作物の栽培に、特定農薬を使っても、もちろん無農薬栽培と言っていいのです(ただし現行法下では消費者に誤解を与えないように、酢あるいは重曹などを使用した旨を併記する必要はあります)。そうでなければ、日本にはただのひとつも無農薬の作物は存在しないことになります。
どういうことか、って?
それは、次回更新のお楽しみということで……。
この本が、農業をテーマとした人物伝としては、ちょっと考えられないほどの読者の支持を得て、ベストセラーとなり、ついには映画化までされることになったのは、著者として望外の幸せです。
たくさんの方から、激励や賞賛のお手紙やメールを頂きました。ライターという職業でありながら、極端な筆無精という致命的欠陥を抱えており、そのほとんどにお返事を出すことができませんでした。
この場をお借りして、心からの感謝を申し上げます。
ほんとうに、ありがとうございました。
もちろん寄せられたのは、賞賛のお便りだけでなく、誤字や脱字、あるいは事実誤認に関する指摘もいくつかありました。それらに関しては、すぐに調べて、ご指摘が正しい場合には、版を改める都度書き改めてきました。
出版社や私のところに寄せられたご指摘に関しては、基本的にすべて対処したつもりなのですが、このインターネット時代には別の形で投げかけられる(?)疑問や反論があります。たとえばこういうブログやツイッター、あるいは各種の掲示板などへの書き込みです。そういうものについては、直接私のところへ質問が送られない限りは、原則として何もお答えしないできました。
けれど、それも良くないよなあ──。
と、近頃思うことが多く、まあブログでも書いてみるかということになりました。
極端な筆無精でありながら(しつこい?)、ライターをやっているというオソロシイ状況ゆえ、いつも締め切りに追いまくられ、ブログの更新がどの程度の頻度でできるのか見当もつきませんが、そういうことで今後ともよろしくお願いします。
ということで、次回は特定農薬について書くことにします。木村さんは、リンゴの栽培に特定農薬に指定されている食酢を使っています。「特定農薬だろうが何だろうが、農薬は農薬なんだから、彼がリンゴの無農薬栽培に成功したと書くのは、間違いじゃないか」というご指摘がありました。
その指摘についての、私の返信です。
あ、次の更新がいつになるのかわからないので、結論だけ先に書いておきます。
農作物の栽培に、特定農薬を使っても、もちろん無農薬栽培と言っていいのです(ただし現行法下では消費者に誤解を与えないように、酢あるいは重曹などを使用した旨を併記する必要はあります)。そうでなければ、日本にはただのひとつも無農薬の作物は存在しないことになります。
どういうことか、って?
それは、次回更新のお楽しみということで……。
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